経済部 シニアエコノミスト
物価が依然として高いままです。総務省「消費者物価指数」によると、8月の消費者物価指数は前年同月比+3.0%となりました。上昇率の直近ピークは2023年1月の+4.3%であり、電気・ガス価格激変緩和対策が2023年2月以降、上昇率を抑制しました。しかし、電気・ガス価格激変緩和措置が2024年5月に終了し、8月から酷暑乗り切り緊急支援が始まる境目であることもあり、足元の上昇率はやや高めになっています。
物価上昇の実感は、もっと大きいようです。例えば、日本銀行「生活意識に関するアンケート調査」によると、現在の物価に対する実感は平均値で+14.5%、中央値で+10.0%という高い上昇率でした。1年後の物価に対する見方も平均値で+10.0%、中央値で+8.0%であり、今後も高い上昇率が継続すると予想されています。消費者が、価格上昇に敏感であることに加えて、食料など生活必需品の価格上昇が目立っていることなどから、統計上の消費者物価指数以上に物価が上昇している実感があると推測されます。
物価の痛みを癒すためにも、賃金上昇がこれまで以上に大切になっています。たとえ物価上昇率が緩やかになったとしても、物価の水準自体は高いままなので、実質的な購買力は失われたままです。その回復には、賃金上昇が欠かせません。
2024年度の春闘では、賃上げ率は5.1%と33年ぶりの高水準となり、足元の賃金は上昇しています。厚生労働省『毎月勤労統計調査』によると、8月の名目賃金(現金給与総額)は前年同月比+3.0%と、32か月連続で増加しました。その内訳をみると、基本給(所定内給与)も+3.0%となり、31年10か月ぶりの大幅な上昇を記録しました。
しかし、物価変動の影響を除いた実質で見れば、これまでの低下傾向をなかなか払拭できない状態が続いています。実質賃金は5月まで26か月連続と、過去最長のマイナスを記録しました。その後、ようやく6月にプラスに転じ、底打ちしたかと期待しかけました。ところが、8月に▲0.6%と再びマイナスになり、実質賃金の回復が一筋縄ではいかないことがあらためて印象づけられました。また、前述のように、統計の数字以上に物価上昇の実感が大きいため、賃金低下の体感がさらに大きいという点も見逃せません。
実質賃金を下支えする上で、物価上昇率を抑制すればよい、という考えもあります。しかし、海外では物価が確実に上昇しています。海外から購入する原材料価格が上昇する一方で、国内の販売価格を据え置くならば、生産性の向上がなければ、企業はその間にある付加価値を圧縮するしかありません。この場合、付加価値すなわち企業収益や賃金に下押し圧力がかかりやすくなります。賃金が削減される痛みは大きいですし、企業収益が必要以上に削減されれば、設備投資を通じて将来の収益源が縮小したり、いざというときの現預金を十分に持てず、コロナ禍のような外的なショックに対する脆弱性が増したりする恐れがあります。また、海外から購入するモノの円建て価格を抑えるならば、例えば、円高・ドル安トレンドを継続せざるを得ません。これまで、その円高・ドル安トレンドが生産拠点を海外に移転させ、地域経済が雇用機会を喪失してきた一因になったとも言えます。そのため、低物価・低賃金・円高という均衡点の1つを、日本経済はコロナ禍前まで推移していたように見えます。
しかし、状況は変わりつつあります。コロナ禍後、為替相場は円安・ドル高に振れ、海外の物価高騰とともに、日本経済を直撃しました。付加価値の圧縮で吸収できる限度を超えた物価高騰によって、企業は販売価格に原材料高を転嫁させざるを得なくなりました。それと同時に生活費もまた高騰したため、生活を維持する上で、社会的に賃上げが要請されました。こうした環境でようやく歴史的な賃上げが実現したといえます。
ただし、失われた実質賃金は、まだ取り戻されていません。その回復はまだ道半ばです。歴史的な賃上げとなった2024年度の春闘の流れが、2025年度以降にも続くことが期待されます。10月7日の日本銀行の支店長会議では、「賃上げを続けていく必要があるとの認識が企業の間で広がっている」と報告されるなど、賃上げ気運が継続していることがうかがえます。
失われた実質賃金は、賃金・物価の好循環が動き始めた初期段階だからこその痛みとも言えます。しかし、実質賃金の低下が耐え難いことも事実です。実感として賃金が上昇していると思えるようになるには、賃金を引き上げ、販売価格に転嫁して、物価が上昇していくような普通の世界に日本企業・経済が戻ることが必要です。企業の取り組み、政府の政策はもちろんのことですが、自分でできる範囲については、賃上げにつながるように結果を残すことも必要です。このようにコラムを書いていることも、仕事の一つとして評価され賃上げの材料になればよいのに……と思っています。